その日私は薄ら寒い仕事部屋の中、一人机の体裁を取り繕ったダンボールとトレス台の上に鎮座する白い上質紙に立ちに向かい、残念ながら灰色とは言えない脳髄をフル回転させながら今だ不慣れな漫画仕事に没頭していた。
だから気付くのに少し遅れてしまったのだ。私の携帯にあの男───その容姿からは熟練のヒヨコ鑑定士でさえ雌雄を判別する事も難しい彼(便宜上ここでは彼と呼称させて貰う)、例の
エラ呼吸から着信が入っていた。
一体何の用事だろう。彼とは翌日忘年会で会う事になっている。直前で連絡とは何かトラブルでも起きたのだろうか。時期的に風邪でもひいたのだろうか。よく考えてみれば彼はエラ呼吸の生物であるにも関わらずバイクに乗る。
幾ら彼の両ヒレが器用であったからといって自在にブレーキを操れるかははなはだ疑問だ。事故にでも遭ったのかもしれない。答えなど出るはずも無いものの、不可解なタイミングでの連絡に無闇に焦燥を掻き立てられた私は震える手で彼の携帯に電話をかけた。
一回、二回。呼び出し音が響く。その間が私の尚早に拍車をかけた。きりっ、と小さく奥歯を噛み締めて三度目の呼び出し。そこでプツリという音と共に呼び出しは止み、受話器の向こうに大勢の人間の気配が感じて取れた。そしてそこからはいつもの元気なエラ呼吸の声が聞こえてきたのだ。
「あ、ツジさん!明日の映画はパプリカ見るのやめて鉄コン筋クリート見ましょう!」
説明しなければなるまい。この忘年会は先日告知したエラ呼吸の同人誌に参加した面子にエラ呼吸が酒を奢る、というのが発端だったのだ。感想は後日改めて書くつもりでいたが、丁度その頃パプリカを見終えていた私と
すがのさんはその独特の映像美と音楽に心を打たれ、再びこの映画を見に行きたいという話をしていたのだ。アニメや映画の類が好きな人間同士でこれを見た後わいわいと映画の話をすればきっと楽しいだろう。そう思った私達は忘年会の前に早く集まれる人間でパプリカを見に行こうという話になっていた。
だが生憎都合がついたのは私とすがのさんの二人のみという結果だった。
では二人で映画を堪能してから飲みに向かおう、という話が決定したのが先日の事である。それを前日になって突然覆せ、と彼はのたまったのだ。
状
況が見えない。彼は都合がつかないと断ったのではなかったのか。怪訝そうに眉間に皺を寄せながら私はこう返した。
「俺は別にいいけど・・・すがのさんにも連絡を取らないと」
「大丈夫、ここにいます」
どうやら電話の向こうでは某社の忘年会が行われている模様。大勢の人の気配はそういう事かと納得した。
「すがのさん、明日の映画はパプリカやめて鉄コン筋クリートにしましょう!ツジさんはOKだって!」
「え?ええ?」
電話の向こうから聞こえるすがのさんの声は明らかに状況をつかめていない。強引な事の運びに納得がいかずに思わず渋い顔をするが電話の向こうにそれが伝わるはずも無い。
エラ呼吸はとても楽しそうに
「じゃあ帰ったら映画館の下調べとかして待ち合わせ時間とかメールしておきますね!じゃっ!」その言葉と共に電話は切れた。深い海にでも潜ったのだろうか。シュトロハイムッ!
話はまだ半分だぜーっ!
そして当日。私の普段の睡眠サイクルは朝寝て昼起きるというような形になっている。夕方に始まるパプリカを見る分にはこれで問題無いのだが、エラ呼吸が時間を提示しないまま忘年会に突入している以上私は朝寝て朝起きて映画に向かう時間を確認する必要がある。私は2時間の睡眠の後眠気に耐えるべく
ウドのコーヒーを啜りながらデスクトップPCを起動しメールソフトを立ち上げた。
そこにあったメッセージはまさに驚愕に値するものだった。
「今帰ってきました。もう二徹とかしてるんで映画とか行けません。すがのさんと連絡とって楽しんで来てください」
お 前 は 何 を 言 っ て る ん だ
夕方。テアトル新宿ですがのさんと待ち合わせる。開口一番二人はこう口にした。
「あのエラ野郎!」
憤怒と呼ぶのは甘すぎる。怨嗟と呼ぶのは優しすぎる。憎悪と呼ぶのはぬるすぎる。およそ考えうるだけの禍々しい感情を込めつつエラ呼吸への罵りの声を上げながら二人は映画館の中へと向かった。それから約二時間。映画だけでは癒しきれぬどろどろとした物を内心に渦巻かせながら私達は待ち合わせの駅へと向かう。そこには彼がいるはずなのだ。人の予定を踏みにじり、人の心を解さない。人の肺腑を海に捨て、胸にエラを備えた男。
そしてこの話は次の更新に続くのである。だってまだまだ色々あったんですから。
そうそう、色々脚色してあります。だから
限り無くノンフィクションに近いフィクションです。フィクションってついてればそれでいいじゃん。